2007年6月17日 (日)

モリー・マーフィー・シリーズ1

 私にとっては待望久しいリース・ボウエンの「モリー・マーフィー・シリーズ」の第1作「MURPHY’LAW」の日本語版がやっと出ました。現在、私のメルマガはニューヨークを舞台にした作品を取り上げているのですが、次回のテーマとして、アイルランド絡みのミステリを考えています。その関係で候補の作品をピックアップしている段階で、このシリーズを見つけたのですが、まだ日本語版が出ていませんでした。

 メルマガで取り上げる為にはたくさんの作品を読まなければならないわけですが、辞書片手に原語で読むのと日本語で読むのではスピードが違います。ですから、このシリーズの日本語版を待っていたのです。それがなかなか出ないので困っていたわけです。六作出ているこのシリーズの三作まではなんとか読み終わったので、どんどん続けて日本語版が欲しいところです。

 アイルランドでレイプを逃れるために男を殺してしまい、ニューヨークに逃げてきた若い女性を主人公にしたミステリです。時代は20世紀初頭。勝ち気なお転婆娘が怖い物知らずで何事にも積極的に飛び込んで行くという設定ですが、ハードボイルド派にはちょっと物足りないところがあります。一番の読みどころは20世紀に入ったばかりのニューヨークが生き生きと描かれているところでしょうか。歴史風俗ミステリと言えるでしょうか。

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2006年6月18日 (日)

ジョゼフ・ミッチェル1

 ジョゼフ・ミッチェルを評する言葉には  「 paragon of reporters」 とか、「 New Yoker reporter who set the standard」 がありますが、私は 「literary journalist」 が一番彼に相応しい評価のような気がします。20世紀の前半にニューヨークに生きた様々な庶民の姿を我々に見せてくれます。オー・ヘンリーがフィクションで描いたニューヨークを、ジョゼフ・ミッチェルはノン・フィクションで描いた言えるでしょうか。

 彼の作品は何冊かにまとめられていて今日でも簡単に読むことが出来ます。その中の一冊が「マックソーリーの素敵な居酒屋」と題された本です。この本は全部は訳されていませんが、何編かは訳されていて、「ニューヨーク拝見」「ニューヨーカー・ノンフィクション」「ニューヨーカー短編集」などに入っています。

 表題になっている「マックソーリーの素敵な居酒屋」という作品は存在しません。巻頭にある 「the old house at home」 という作品に出てくる酒場の名前なです。短編集には集録した中の一編の題名を全体の表題にすることはありますが、こういうのはあまり聞いたことがありません。日本ならサブタイトルに「ジョゼフ・ミッチェル作品集」と付けるのが普通ですが、アメリカではそうしないようです。

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2006年5月16日 (火)

クイーンとハードボイルド

連載中のメルマガ執筆のためにエラリー・クイーンを読んでいて、「おやっ!」という文章にぶつかりました。

「ブロードウェイにはハードボイルドと称する連中がうじゃうじゃしてますが」

これは1933年作の「アメリカ銃の秘密」(早川文庫版)の57ページにあります。訳は大庭忠男氏です。クイーン自らが解説文ではなく、作品の中で「ハードボイルド」という言葉を1933年の時点で使っていたのかと驚いた次第です。この言葉が1933年にはすでに市民権を得て、会話の中で使われるようになっていたことを意味しているからです。

所が、井上勇氏の創元文庫版では51ページでこう訳しているのです。

「ブロードウェイは、気むずかしいといおうか、なんといおうか、そんな連中でいっぱいだけれど」

これでは大庭氏が勝手に「ハードボイルド」という言葉を持ち出して来た可能性も考えられるわけです。確認のためには原文を読む必要があるわけですが、現在、エラリー・クイーンの作品は日本では簡単には手に入りません。

結論が出ないまま読み進めると、早川文庫版の213ページでこういう文章がありました。

「ニュース・カメラマンってやつは、新聞記者より10倍もハードボイルドなんです。」

そこで、また創元文庫版を見てみると、209ページにこういう文章がありました。

「ニュース映画のカメラマンは新聞記者よりも、およそ千パーセント以上、ハード・ボイルドだ。」

二人の訳者が同じように訳しているので、原文でも使っていると思っていいでしょう。最初の文では井上氏の方が意訳したのだと私は思います。

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2006年5月 9日 (火)

忘れられたピランデルロ?

 連載中のメルマガ執筆のために必要になって、ピランデルロを読もうと思って探しました。が、街の本屋さんには置いてなかったので、ネットでよく利用する古本屋ネットで探した所、一冊の文庫本に4500円という値段で出ていました。

 古本の値段は需要と供給の関係で成り立っているので、値段は実は多くを語っているのです。つまり、一冊の文庫本に4500円という値段を付けているということは、一般の読書人は読まなくなった作家だが、ピランデルロを欲しいと思う人間はこの値段でも買う筈だという判断があるのです。 

 その気になってネット上で検索してみたのですが、ピランデルロについて正面から取り組んでいる文章には出会いませんでした。読む人も書く人もいなくなった作家。ピランデルロはそういう存在になっているのかという発見は驚きでした。

 

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2006年3月 4日 (土)

「蜘蛛の巣のなかへ」2

 彼の作品の内容が変わって来ているという評を、最近よく目にしますが、どう変わったのかは誰も口にしないようです。全盛期を過ぎて下降線を辿っているのか、それとも、これからもっと別の方向に伸びていくのかの判断を避けているからでしょう。 この作品がトマス・H・クックの作品の中で、どういう位置を占めるのか考えてみることで、一つの方向性を見てみたいと思います。

 彼の作品の中で最も評価が高いのは「記憶」シリーズと呼ばれている四つの作品ですが、これは日本語版で勝手につけた名前で、原作で「MEMORY」がついているのは「死の記憶」だけです。「蜘蛛の巣のなかへ」はその「記憶」シリーズの中の「夜の記憶」に繋がると私は解釈しています。

 「夜の記憶」はポール・グレーヴズというミステリ作家の過去と現在を描いた作品です。彼は子供の頃、両親が事故死したあと、姉と二人暮らしをしていたのですが、家に押し入ってきた強盗が姉を目の前で惨殺した過去を忘れようとニューヨークに出て来て、ミステリを書いて、一人で生きています。

 その過去の殺人事件の真相が読み進む読者の前に次第に明らかになってくるという設定は、この作品と似ているのです。「夜の記憶」(訳は同じ村松 潔氏です)では、各パートの頭に、主人公ポール・グレーヴズの作品からの抜粋を載せているのですが、第1部ではこうなっています。

 「嘘をついた人の耳元には、絶えず真実がささやきかける」
      (「クモの巣にかかって」ポール・グレーヴズ)

 この「クモの巣にかかって」は原文では「into the web」となっています。つまり、「蜘蛛の巣のなかへ」と同じなのです。さらに、第3部では「夜の森」という作品から、「本当に自然を見たいなら、空気をクモの巣だと考えてみることだ」という文章を取りだしています。ここでも「web」(クモの巣)という言葉を使っています。この拘りが、作品の鍵を握っていると思います。

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2006年2月24日 (金)

「蜘蛛の巣のなかへ」1

 トマス・H・クックの作品は私のメルマガ(「海外ミステリを読む」)で「PERIL」(邦題「孤独な鳥がうたうとき」)までの14作品は取り上げましたが、この作品は当時は翻訳が出来ていなかったので触れませんでした。

 19才で故郷を捨てた男が、20数年後に一人暮らしの父親の死を看取る為に戻って来て、父の死までの3ヶ月をどう過ごしたかを描いた作品です。彼は家族を持たないことを決心し、教師をしながら一人で生きています。そんな息子を父親は「なぜ、そんなことを望むんだ?ひとりで生きて行くなんて」と非難します。それに対して彼は「家族がいた時、僕の人生はどうだったか思い知らされたかも知れないよ」と答えるのです。 

 愛もなく、憎み合う父と母。殺人事件を引き起こし留置所で首つり自殺をした弟。彼との結婚を断った初恋の女性。彼はそういう状況から逃げ出したのですが、戻って来た彼の前に、その逃げ出した過去が立ちふさがることになります。

 「世界の歴史を知らずに生きるのはたやすいが、自分自身の歴史を知らずに生きていくのは容易なことではない」

 町を牛耳る保安官親子。父の過去。弟の自殺。初恋の女性。小さな町の人間模様が悲しく乱舞する物語です。

 この作品は文春文庫から村松 潔氏の訳で出ています。クックの作品を読んだことがない方で、これから読んでみたいと思われる方は、私のHPの「ミステリ資料室」にメルマガのバックナンバーがありますので、参考にして下さい。私は決して結末は明かさない主義なので、その種の心配はありません。

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2006年2月12日 (日)

ヴァン・ダインの伝記6

 ヴァン・ダインは弟と二人で1914年3月に「オリンピア号」でフランスに向かい、1915年3月に「ルシタニア号」でアメリカに戻ったと伝記にはあります。

 この「ルシタニア号」は歴史に残る客船なのです。1915年5月1日にニューヨークを出航し、6日にドイツのUボートに魚雷で撃沈され、1000人を越える乗客が死に、それまで中立を保っていたアメリカは、この事件で反ドイツの気運が高まり、参戦のきっかけになったのです。

 ヴァン・ダインは3月にその船に乗ったわけです。当時、「ルシタニア号」は大西洋航路で最も早い船で、イギリスとアメリカの間を5日弱で渡っていました。 ドイツ贔屓だったヴァン・ダインが戦火に追われて母国に戻る時に利用した船が、そのドイツに撃沈され、アメリカが参戦することになったのですから、運命の皮肉を感じます。

 

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2006年2月 3日 (金)

ヴァン・ダインの伝記5

 ヴァン・ダインの父親は1913年9月12日に63才で死亡します。この頃の彼はニューヨークにいて、「スマート・セット」の編集長をしていました。母親からの知らせで彼は葬儀に出席するために帰省します。遺産のことが頭にあったのかも知れません。この父親には確かに遺産はあったようです。ですが、遺言は驚くべき内容で、二人の息子には一人1ドルだったと伝記作者は伝えています。二人は父親の周りの人々からは「crazy sons」と思われていたようで、父親も息子達は母親の老後をみてくれるとは思わなかったようです。その結果、息子達に2ドルを、そして残りはすべて息子達の母親に遺したそうです。

 ビジネスの世界にいる父親とその周囲の人間から「crazy sons」と思われていたことは、文筆家と画家を目指していた二人の息子にすれば当然のことで、「あそこの息子はいい息子」だと評判がいいようなら商売にしか向いていないわけですから、彼等には勲章みたいなものです。

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2006年1月27日 (金)

ヴァン・ダインの伝記4

 ヴァン・ダインの本名はWillard Huntington Wrightですが、弟はStanton Macdonald-Wrightです。兄弟なのに名前が違うのは、弟が自らの意志で改名したからです。その理由について、伝記は次のようなエピソードを紹介しています。

  Wrightという同名の有名人がいて、その人の親戚かと尋ねられることが多かったらしく、そのことに「tired(疲れて)」改名したというのです。作家の兄と画家の弟ですが、変わっていた点では似たところがあったようです。

 同名の有名人というのは、「帝国ホテル」の設計者としても知られる、建築家のFrank Lloid Wrightです。

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2006年1月21日 (土)

ヴァン・ダインの伝記3

 伝記によると、ヴァン・ダインは複数の大学を転々としています。サン・バンサン大学に1年、南カルフォルニア大学に1学期、シラキュース大学に数週間、ポモーナ大学に1年間だそうです。さらに、ハーバード大学に至っては入学資格すら得てなくて、二つの講義を受けるだけの特別生徒だったと書いています。講義の内容が彼のような秀才にはレベルが低かったので満足出来なかったからだと思いますが、これらの大学で「学んだことがある」と言うのはいいのですが、「卒業した」と言うのは嘘をついたことになります。彼は19才で恋をして結婚したあと、大学に戻っていないので、どこの大学も卒業はしていないことになります。

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2006年1月 8日 (日)

ヴァン・ダインの伝記2

この伝記を読んでいると、画家だった弟の側からの資料が多く採用されているのが目に付きます。その理由は伝記作者のジョン・ラファリーが美術記者であり、その方面に強いということと、弟が1973年まで生きていたことが考えられます。

 ヴァン・ダインの弟のスタントン・マクドナルド・ライトの生涯を垣間見ると、1952年に日本に来ていることに気が付きました。五ヶ月ほど滞在し、モダン・アートの講義もしているようです。1952年と言えば、日本でのヴァン・ダイン人気の最盛期だった筈です。ですから、新聞社か出版社が彼の兄についてインタビューしていると思います。あるいは、この時に講義を受講した人が何か書き残しているかも知れません。そういうものを捜して読んでみたいと思うのですが、忙しくて、なかなか手がまわりません。

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2005年12月14日 (水)

ヴァン・ダインの伝記1

 ヴァン・ダインの名探偵ファイロ・ヴァンス物語は最初の数冊こそベストセラーになるほどの人気でしたが、そのあとは次第に売れ行きが落ち、50年代から60年代にはすでに忘れられた作家になり、今日ではエラリー・クイーンの先駆者としての地位を与えられているだけで、ハードカバーは勿論、ペイパーバックでさえ発売されていません。一方、日本では文庫版で全作品が今でも新刊書として売られていますし、雑誌で特集が組まれるほどの人気を維持しています。原作が読まれなくなっているのに、翻訳された国では読む人が多いのは何故かと考えてみるのも面白いことではないでしょうか。

 ヴァン・ダインは1939年に亡くなったのですが、伝記は1992年まで誰も書こうとはしませんでした。書いたのはジョン・ラファリーという若手の美術評論を中心に執筆活動をしている人で、タイトルは「別名S・S・ヴァン・ダインーファイロ・ヴァンスを創り出した男」です。この本は1993年に評論部門でエドガー賞を受賞していますが、何故か日本の出版社は翻訳しようとしません。

 私がこの本を読んだのは、書いているメルマガのためです。彼はニューヨークを舞台にしながら、ニューヨークという街を描いていないので、何故だろうと思ったからです。彼の実人生からそれを探ろうと思って読んだのです。そのことについて、メルマガとは別の視点から書いてみたいと思います。

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2005年11月19日 (土)

ウールリッチの自伝14

 ウールリッチの自伝は未完のまま出版されていますが、、編集者は彼の残された文書の中から、ウールリッチが自伝の「ENDING]用に書いたと思われる文章を「補遺」として提供しています。ネヴィンズは伝記(日本語版のタイトルは「コーネル・ウールリッチの生涯」)の中で、その文章を使っています。ウールリッチの死を語る場面です。日本語版の下巻の231ページにある以下の文章がそうです。私とは違う解釈の部分がありますが、門野集氏の訳をそのまま引用します。出版社は早川書房です。

 「私は死を欺こうとしてきたのだ。いつの日か、暗闇が襲いかかり、私を消し去ってしまうことはわかっていた。私はた だしばらくのあいだ、それを乗り越えようとしていたのだ。死んでしまったあとも、ほんの少しだけ長く生き続けようとしたのだ。この世を去ったあとも、光のなかにとどまり、あとはほんの少しだけ生者とともにいたかった。」

 私はネヴィンズのこの伝記の英語版つまり、原作に目を通していませんので、ここから先は推測になりますが、門野氏が原文をすべて訳したとするなら、ネヴィンズはウールリッチの文章の最後の1行を削除したことになります。実はウールリッチの文章には最後に以下の文章があります。

 「I loved them both so.A Fool and his machine. Yes,a fool and his machine.」

 この文章の「machine」の意味が分からないのです。この10日ほど、この文章を睨んでいるのですが、私には解釈不能です。ひょっとすると、ネヴィンズも意味不明なので切り捨てたのかも知れません。どなたか教えて下さい。

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2005年11月13日 (日)

ウールリッチの自伝13

 ウールリッチの自伝を読み終えての最初の感想は、ラストが中途半端だなということを前回書いたのですが、編集者による巻末の補遺にその答えがありました。

 それによると、やはり未完成だったというのです。おまけに失われた章もあるようです。失われたことが何故分かったかと言うと、別のノートに概要が残っていたからです。その内容は「失敗した結婚」についてのようです。何故、その章がなくなってしまったのかは書かれていませんので詳しい事情は分かりませんが、彼の人生の中でも最も謎の多い部分だけに惜しまれます。

 また、この自伝のエンデイングについても断片が残っているようです。その内容は次回にご紹介します。

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2005年11月 5日 (土)

ウールリッチの自伝12

 ウールリッチの自伝の第5章(最終章)は「競馬好きなメイド」という奇妙な題がつけられています。ウールリッチがシカゴのルーズヴェルト・ホテルにしばらく滞在した時のエピソードです。

 彼の部屋を掃除しているメイドはどうみても60才を過ぎている女性でした。彼女はウールリッチに仕事は何をしているのかと訊ねます。すると、彼はWriter(作家)だと答えたのに、彼女はRider(騎手)と聞き違えてしまいます。彼はニューヨークなまりがあり、シカゴとは少し違うアクセントだったせいでしょう。しかし、彼は彼女の勘違い.を正そうとはしないのです。なぜなら彼は自分が騎手に間違われたことを喜んでいるからです。自分は書くという行為に男らしさを感じて来なかったと告白しています。もっと行動的で、他人と競い合うような職業に憧れを抱いていたと言うのです。

 誤解を解かないままなので、彼女との会話はその延長上で行われるわけです。彼女は騎手なら色々な内部情報を知っているだろうから、どの馬が勝ちそうか教えてくれと言い出すのです。彼は思っても見なかったことを言い出されて困るわけですが、今更違うとも言えずに適当なことを言って誤魔化すのです。

 所が、その予想が当たってしまい、今度は別のメイドが彼の部屋の担当者として現れるのです。前のメイドから話を聞いて自分も勝ち馬を教えて貰おうと思っているからです。彼の方はまぐれが二度も続くはずがないと分かっているので、メイドが損をするようなことは出来ないと頭を抱えてしまいます。悩んだあげくに彼が選んだのは逃げ出すということでした。

 予定を早めてチェックアウトしているその時に、そのメイドが遠くで彼を見ていたのです。勿論、何も言いません。が、その恨めしげな視線に彼は気が咎めて落ち込むのです。去り際にタクシーの後ろの窓から入口を見たのですが、そこには誰もいませんでした。それがこの作品のラストの文章なのです。気の弱い男が自ら招いたトラブルを逃げ出すことでしか解決出来ない有様をオー・ヘンリーのような短編に仕上げていて、それはそれで面白いのですが、自伝のラストとしては中途半端な思いがします。

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2005年10月26日 (水)

ウールリッチの自伝11

 ウールリッチの自伝の第4章は1957年2月20日の出来事を描いています。この年彼は54才です。殆どの作品はもう書き終えて、母と二人でブロードウェイに面した104丁目にあるホテル・マルセイユで暮らしています。母は心臓が悪いので、この時期の彼の心配は母の健康が中心でした。彼女はこの年の10月には亡くなりますので、死の八ヶ月前の事件ということになります。

 その日はアイゼンハワー大統領の特別演説がラジオで全米に放送されるというので母は熱心に聴いていました。その最中にホテルの下の方で火災が発生するのです。ウールリッチは心配で部屋を出たり入ったりとうろうろします。自分が痩せていて力がないので、もし母を連れて逃げなければならなくなったら誰かに助けて貰う必要があるからです。火災がどの程度のものなのか、上の自分たちのところにも広がってくるのかを確かめるためにホテルの中をうろついているのです。

 幸いなことに火事は治まり、逃げる必要がないと分かって彼は部屋に戻ります。母は大統領の演説に耳を傾けていて彼を安心させます。彼女は火事には気が付くことはなかったに違いないと思ったからです。しかし、明日になれば彼女の耳にも入るだろうから、あらかじめ知らせておいた方がいいだろうと判断したウールリッチは「実はちょっとしたトラブルがあったんだ」と話し始めます。しかし、彼女は「知っていますよ」と答え、彼を驚かせます。「どうして?だって、ずっとここにいてラジオを聴いていたじゃないか」と訊くと、母は「あなたの顔を見ればそれくらいのことは分かるのよ。だから、知らない振りをした方があなたに心配をかけないだろうと思ったの」と言ったのです。

 母のその言葉に彼は言葉を失います。病気の体だから逃げ出すには時間がかかるはずです。それなのに、息子に余計な心配をかけまいとラジオに集中している振りをしていたわけです。病気の体で自分の心配よりも息子のことを心配していた母に気がついて彼は言葉を失ったのです。そして、彼は次のように書いて、「アイゼンハワー大統領の演説」と題したこの章を終えています。

  「そんな母はもういない。勇気という言葉を耳にする度に、母のことを想い、その夜のことを思い出す。」 

 母と息子の感動的なエピソードですが、編集者のバセットは注釈で、こう書いています。

 「ニューヨーク・タイムズには、この年に火災のあったホテルは一軒しか載っていない。それは西83丁目215番地のHotel Brierfield だ。」

 ウールリッチの住んでいたホテルでの火災は本当にあったのだろうか。そんなことを示唆する注釈です。火事がなかったのなら、彼は嘘を書いたということになります。ネヴィンズが伝記の中で、「エピソードの信憑性に問題があるが」と指摘しているのはこのことを指しているのだと思いますが、私はこのエピソードは事実だろうと思います。ニューヨーク・タイムズに載っていないから火事がなかったとは断言できないでしょう。我々の周囲でも火事がすべて新聞に載るとは限りません。小さな火事なら現場からの報告があったとしても紙面の都合で捨てられるケースは多いのです。小さな火事だったから、ウールリッチ親子が逃げる必要がなかった筈です。

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2005年10月15日 (土)

ウールリッチの自伝10

 ウールリッチの自伝の第3章の後半は一人になって安ホテルに住みながら小説を書く自らを描いています。パリに行った時に書き始めたのですが、完成させることが出来なかった「I Love You,Paris」というタイトルの作品を必死になって書き続けます。

 やっと完成させたのですが、出版社に断られ、映画会社にも売ることが出来ませんでした。ところが、1年後に一つの映画が封切られます。ウールリッチはその映画がタイトルに「パリ」という言葉が入っていたということしか覚えていないと書いています。その映画の紹介の文章を読んだ彼はすぐに映画館に行きます。というのは、その映画が彼の小説と同じ、1912年のパリが舞台だと紹介文に書いてあったからです。

 ウールリッチはその映画を見て、自分の作品が盗まれたと書いていますが、この自伝の編集者のバセットは注釈で、ウールリッチ自身もこの小説のプロットをEarl Carrollのブロードウェイ・ミュージカル「Vanities[1931]」から拝借しているのだから、「自分のプロットが映画会社に盗まれた」とあまり大きな声では言えないはずだと冷たく突き放しています。この自伝の面白さの一つに、このようなバセットの冷酷とも言える注釈にあります。日本人の自伝では身内や弟子が編集した場合は都合のいい解釈をする場合が多いですが、それに比較して対照的な編集姿勢と言えます。例えば、ウールリッチがスミスという人物を持ち出して来た場合にも、注釈で「当時のニューヨークの電話帳にはスミスという名前はない。従って、ここに書いてあることが本当のことかどうかは分からない」と冷静に指摘するのです。

 一つだけ私の印象を語るなら、自分の作品を下敷きにしたなと疑った映画の題名を忘れたというのは本当かなという気がします。本気で怒ったのなら生涯忘れないと思うのですが・・・

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2005年10月 8日 (土)

ジェラルディン・ファーラーの自伝

ウールリッチの人生を追いかけている途中なのに、同じ時代に同じニューヨークで生きたソプラノ歌手ジェラルディン・ファーラーの人生を追いかけることになりました。月一回執筆しているメルマガで、彼女が登場するミステリを取り上げた為です。プロ野球選手の娘として生まれ、音楽学校を卒業し、ヨーロッパで修行したあと、メトロポリタン歌劇場のプリマ・ドンナになったのに、それに満足せずに無声映画の世界に飛び込み、スターになるという波瀾万丈の人生を送った女性です。

 自伝があると書いてあったので是非読んでみたいと思って捜したのですが、どこの本屋にも公共図書館にも(国会図書館にも)ないのです。でも、ネット上で一つの章だけを見つけたので読みました。無声映画の世界に入ってからの部分でしたが、情熱的で、何事にも果敢に取り組む姿勢を持った自らを率直に語る文章は、嘘と韜晦が多いウールリッチの自伝とは対照的でした。

 二人が自らを語る文章を比べてみても、性格と生き方の違いが分かります。(私は素人ですので訳は参考程度に読んで下さい。)

 「I was enthusiastic」(私は燃える女だった)ーこれはファーラーの文章です。一方、ウールリッチはこう書いています。

 「I was born to be solitary,and I liked it that way」(私は生まれた時から孤独だったけれど、それが嫌ではなかった。)

 ジェラルディン・ファーラーの自伝は「Such Sweet Compulsion」というタイトルですが、日本で何人の方が持っているか分かりません。オペラ関係か無声映画関係の資料室にはあると思うのですが、存在は確認出来ていません。

 彼女が主役のミステリは「気ままなプリマドンナ」という題で、私のメルマガでは「ニューヨーク・ミステリの系譜」の第四回で取り上げました。

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2005年9月30日 (金)

ウールリッチの自伝9

 ウールリッチの自伝の第3章は「EVen God Felt the Depression」と題が付けられています。「神でさえ不況だと思った」という意味でしょうが、要するに1929年10月の株価の暴落に始まる大恐慌の時代のことです。第2章は初恋の結末を語って終わっているのですから、その間の事が抜けているわけです。実は彼が書かなかったこの期間が彼のこのあとの人生を決めた時期だったのです。編集者のバセットが「Romantic Novel」と呼ぶ初期の小説が認められて、ハリウッドに招かれて映画のシナリオを書いていた時期です。我々が知っているウールリッチの作品(編集者は「Suspense Fiction」と呼んでいます)はまだ生まれていません。

 この時期の最大の出来事は結婚です。彼は1930年12月にジェイムズ・スチュアート・ブラックトンという映画のプロデュサーの娘のグロリアと突然二人だけの結婚式を挙げたのです。が、三ヶ月続いただけでした。ニューヨークに戻った彼は再び母親との暮らしに戻ります。

 1931年には母親とヨーロッパに旅行します。この旅の間に完成させた「マンハッタン・ラブソング」は「Romantic Novel」の時代から「Suspense Fiction」への転換を告げる作品という評価が何人かに指摘されています。これについてはメルマガの中でじっくり書いてみたいと思っています。

 そして帰国してから彼は独立し、ホテルでの一人暮らしを始めるのです。第3章はこの一人暮らしの時期の話から始めていて、その間のことには言及していません。我々が一番知りたいことー結婚生活とかシナリオ・ライター生活のことは一切書いていないのです。書きたくないことの多い時期だったと推察するしかありません。自伝の第2章と第3章の間の空白が彼の自伝の中の、さらに言うならば彼の人生の中の一番重い部分だったのではないでしょうか。初恋の女性が人生を狂わせて行く姿は冷酷にフィクション化して書いたのに、彼自らの人生が歪んで行く姿、つまり結婚生活が出来なかったという事実を直視することが出来なかったわけですから。

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2005年9月21日 (水)

ウールリッチの自伝8

 パーテイのあと、ヴェラはウールリッチの前から姿を消します。バイトをしていた女性の高価なコートを勝手に持ち出した為に訴えられ、六ヶ月監獄に入れられていたからです。それから数ヶ月後、ウールリッチはたまたまヴェラが住んでいた八番街の114丁目を歩いていたら、ヴェラと再会するのです。その頃、第一次大戦が勝利に終わり、ヨーロッパ戦線に送られていた兵達達も戻り、町は戦勝気分で沸いていました。若者達は街角でダンスをしたりして平和を楽しんでいる時期でした。ヴェラは彼に「こんなところで何があったのか話すのはつらいから踊って」と誘い、二人は踊り始めます。そこにヴェラの知り合いらしい女が現れ、「何をしているの?あの人達は待っているのよ」と叱ります。すると、ヴェラは「分かったわよ」と言って、その女性と一緒に立ち去るのです。二人の後を追ったウールリッチは彼女らが大きな車に乗り込むのを見ます。車の中にはギャングのような人間達が乗っていたのです。車が立ち去り、見えなくなるまで彼は見送っていました。

 ウールリッチに身分違いのパーテイに誘われたために犯罪者となったヴェラはギャングの情婦になったような印象の文章です。そして、最後に「私達は二度と会うことはなかった。会っていたとしても気が付かなかっただろう」と書いて、自伝の第二章を終えています。まるで彼の短編小説のようなラストですが、私はこの部分はフィクションだと思います。話が出来すぎています。偶然の出逢いもおかしいし、「何も言いたくないから踊って」という台詞は映画でしかあり得ないでしょう。初恋の女性はいたでしょうが、この結末は現実に起こったことではないと私は思っています。

 ネヴィンズは伝記のなかで、この場面を「この章は、ノワール文学のなかでも最も完璧は文章の一つで幕を閉じる」(門野集訳)と書いていて、虚実の判断を避けています。

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2005年9月 7日 (水)

ウールリッチの自伝7

 ウールリッチの自伝の第2章は「The Poor Girl」と題されています。第1章の題名から察するに編集者ではなく、彼自身の命名だろうと思います。この章は彼の初恋を扱った章ですが、この章だけを取りだして彼の他の短編と比較してもベスト10に入るだろうと思うくらいによく出来ています。この章の内容はブログで扱うにはテーマが大きすぎるので、連載中のメルマガ「ニューヨーク・ミステリの系譜」の中で詳しく分析したいと思います。

 ここでは次の2点だけにしておきます。

1.ウールリッチの初恋は18歳の時で、相手はヴェラ・ガフニイという「Irish working-class girl」(編集者のバセットの言葉)つまり、「アイルランド系の労働者階級の少女」でした。ウールリッチは彼女との初デイトで、手をつないで歩きながら「Ka-lu-a」という歌を口笛で吹いたら、彼女もそれに合わせてハミングしたという描写があります。あの陰気な顔をしたウールリッチが少女と手をつないで口笛を吹いて歩く姿などは想像で来ませんが、彼にも青春があったということです。この歌は注釈によると、ジェローム・カーン作曲、アン・コールドウェル作詞のミュージカル「Good Morning、Dearie」の中の一曲だそうです。私はミュージカルには不案内なので詳しいことは今の段階では分かりません。

2.彼女は貧しかったので、ウールリッチからパーテイに誘われた時に着て行く服がなく、他人の服を無断で借用して出席したので、持ち主から訴えられ六ヶ月入牢することになり、人生を狂わせてしまうという悲しい結末を迎えます。勿論、二人の恋もたった一度のパーテイで終わるわけです。しかし、話が出来すぎていて短編小説としては面白いのですが、自伝となると話は別です。どこまでが本当のことなのか、判断に苦しむところです。メルマガではその辺りを追求してみたいと思います。

 

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2005年8月26日 (金)

ウールリッチの自伝6

 ウールリッチの処女作は1926年に出版された「カヴァー・チャージ」という作品で、コロンビア大学の学生だった23歳の時の作品です。ミステリではなく、日本流に言えば「純文学」の作品ということになるでしょうか。翻訳もなく、原作も滅多に手に入る作品ではないので内容はこれまで知られていなかったのですが、今度翻訳の出たネヴィンズの伝記にはその詳細が紹介されています。結論的には「フィッツジェラルドの影がちらつく」(ネヴィンズの文章)作品のようですが、ウールリッチはこの作品が出版され、そこそこの評価を得ると、大学を中退し文筆一本で生活して行く決心をします。フィッツジェラルドが「楽園のこちら側」のヒットで文壇の寵児になったのが1920年、彼が24歳の時ですから、「僕の方が若いじゃないか」と自信を持ったのかも知れません。

 「カヴァー・チャージ」が出版されるまでの経過は自伝ではこんな風に書かれています。彼は最初は自分のタイプライターがなく、友人のを借りていたのです。その友人がタイプライターを貸したお礼に作品を読ませろと要求したというのです。その友人の彼女が出版社の社員で、その作品を読み、会社に出版を勧めたとなっています。所がネヴィンズは1947年に雑誌に載ったウールリッチの文章では彼自らが出版社に持ち込んだと書いているというのです。どちらが本当なのかは分かっていないようです。何せ両方共、本人の文章なのですから。

 このように彼の自伝には信憑性が疑わしいと思われる箇所がいくつかあるようですが、本人の意図がどこにあるのかー自分でも忘れてしまったのか、書きたくない部分なので変えたのか、無意識に事実を歪めてしまっているかーを推理するのも自伝を読む楽しみなのです。文章の背後に生の人間性が透けて見えて来ます。

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2005年8月16日 (火)

ウールリッチの自伝5

 ウールリッチは自伝の中で「私は女性を深く愛したことがない」と言い切っています。それでも「恋」らしきものは3度したことがあると続けています。最初の恋は「puppy love」だったと書いています。つまり「幼い恋」という意味でしょうか。自伝の第二章で「貧しい少女」と題して、その恋の一部始終を書いています。ですから、我々はその恋についてはある程度のことは知ることができます。三度目の恋の時に結婚していますが、彼は結婚生活について殆ど沈黙を守っていますので他人の文章でしか知ることが出来ません。自伝の編集者のバセットは「注釈」で結婚生活についてはネヴィンズの伝記を見ろと書いています。

 二番目の恋については奇妙な表現をしています。誰かが彼女と結婚した。そう書いているのです。これがウールリッチ流の韜晦なのでしょう。彼女は自分以外の誰かと結婚した。それ以外のことは言いたくない。そんな意味なのでしょうが、深読みすれば、余程こっぴどく傷つけられたということではないでしょうか。バセットの「注釈」は「二番目の恋については何も分かっていない」という文章で終わっています。前回のように伝記映画を作る仮定で話をすれば、この二番目の恋に映画の重点を置けるでしょう。詳しいことが分かっていないのですから、大きくフィクションを挿入することが可能になるからです。作家が資料を収集する目的の一つは、このような伝記の中の空白を捜すためなのです。そこから想像を膨らませて、一つの作品に仕立てるわけです。

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2005年8月12日 (金)

ウールリッチの自伝4

 ウールリッチの自伝を読んでいたら、大学生の頃の趣味について触れている文章がありました。好きで集めていたレコードはレッド・ニコルズとジョージ・オルセンだというのです。「サンタが町にやってくる」をヒットさせたことで音楽史上に名を残しているジョージ・オルセンと「五つの銅貨」という伝記映画で知られるレッド・ニコルズの二人が若い頃のウールリッチのご贔屓だったわけです。映画ではダニー・ケイが演じていましたが、裏で本当にコルネットを吹いていたのはレッド・ニコルズ本人だそうです。

 ウールリッチは晩年、映画化された自分の作品を見るのを楽しみにしていたとネヴィンズの伝記にありますが、1960年に制作された「五つの銅貨」を見たかどうかの記述はありませんでした。ウールリッチの死は1968年ですから、一人でこっそりニューヨークの映画館で見た可能性はあると思います。私がウールリッチを主役にした伝記映画を作るとしたら、年老いた彼が人気のない映画館でこの映画を見ているシーンから入ります。レコードのアップの場面から大学生の頃に戻るのです。そして、出版社に送った処女作が採用され、第二のフィッツジェラルドとしてデヴューするシーンに繋げるわけです。

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2005年8月 5日 (金)

ウールリッチの自伝3

 ウールリッチは自伝の第1章に「Remington Portable NC69411」という奇妙なタイトルを付けています。最初から韜晦の彼方に身を置く意志を表明したのかも知れません。「君に初めて会ったのはずいぶん昔だね」と書き出して、読者に「誰に語りかけているのだろうか」と思わせます。その相手が彼が愛用していた「レミントン・ポータブル」というタイプライターなのです。人間ではなく、タイプライターを相手に自分の一生を語り始めた男の姿には孤独が滲み出ているような気がします。

 「黒衣の花嫁」にはこのタイプライターへの献辞があります。

 「部品のふぞろいなレミントン・ポータブルNo.69411にこれを献げる」

 この献辞は稲葉明雄訳のハヤカワ文庫版にはありますが、黒沼 健訳のポケミス版にはありません。稲葉さんの「あとがき」に1957年のデル・ブルックス版をテキストとして使用したとありますから、旧版にはなかったのかも知れません。となると、自伝の第1章と「黒衣の花嫁」のデル・ブルックス版の出版は時期的に重なるのではないかという推理が成り立つのではないでしょうか。その根拠として、旧版とデル・ブルックス版ではエピグラフが替わっているからです。ポケミス版では第1章のエピグラフはポオですが、文庫版ではポピュラー・ソングとして有名な「ブルー・ムーン」の一節を使っているのです。エピグラフを替えた位だから、献辞を新たに加える作業も同じ手間で出来たのではないか。あくまで、私の個人的な推理です。

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2005年7月27日 (水)

ウールリッチの自伝2

 この自伝は死後に銀行の貸金庫から発見されたそうですから、まだ編集者の手に渡っていなかったと判断していいでしょう。となると、「Blues of  a Lifetime」 というタイトルはウールリッチ本人がつけたものだと思えます。彼は長編は出版社からの求めがなくても書き始めていたようですから、これもいずれは出版するつもりでこつこつ書きためたものなのでしょう。

 彼は自らの生涯を振り返る文章に何故、「Blues of  a Lifetime」というタイトルを付けたのでしょうか。そもそもこれは日本語に直すとどういう意味なのでしょうか。彼の作品でタイトルに「Blues」という言葉がついているのは「New York Blues」だけですが、これと同じような使い方なのでしょうか。とすれば、「ブルースのような私の人生」という意味なのだろうか。いや、それではおかしい。Monday morning blues(月曜日の朝の憂鬱)のような使い方ではないだろうか。とすれば、「私の人生、暗かった」になるだろうが、これでは演歌になってしまう。「MY」ではなく、「A」としたのはどういう意図の下なのだろうか。「A」を生かせば「ある人生」になるから、「人生ブルース」はどうだろうか。しかし、それでは60年代のフォークソングではないか。などと、なかなかまとまりません。 

 この一週間、これで結構楽しめました。電車の中、週末に乗った飛行機の中、スターバックスの店の中などで、あれこれ考えて時間を潰すことが出来たからです。

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2005年7月22日 (金)

ウールリッチの自伝1

コーネル・ウールリッチの自伝は1968年の彼の死後、銀行の貸金庫から発見されたそうです。今回翻訳の出た伝記の原本が出版された時(1988年)にはまだ出版されていませんでした。「Blues of a Lifetime」というタイトルで彼の自伝が出版されたのは1991年です。まだ翻訳が出ていませんので原文で読むしかありません。

 私流の自伝の楽しみ方は、まず他人が書いた伝記を読んでおきます。あれば複数を読みます。こうしてその人がどのような人生を送ったのか知っておくのです。そのあとに自伝のページをめくって行くわけです。そうすることで、どこに韜晦があり、嘘があり、何を書かなかったが分かるのです。何を韜晦したかも面白いですが、何を書かなかったかが、その人が自分の生涯を振り返っての正直な感想にもなるわけですからポイントになる気がします。

 ネヴィンズの伝記(翻訳版)を読み終えたので、いよいよ自伝にとりかかったのですが英語ですので日本語を読むようにはいきません。ウールリッチの短編に「ニューヨーク・ブルース」という作品がありますが、私はこれが彼の全作品を言い表す言葉になるのではないかという思いがあります。ニューヨークという町をブルースのリズムで描いたのが彼の作品ではないかと思っています。彼の作品はシンフォニーでもなければゴスペルでもありません。彼の文章はブルース、それも黒人の演奏ではなく、ジャンゴ・ラインハルトの演奏するブルースのリズムを感じます。

 ジャンゴ・ラインハルトを聞きながら辞書片手に読んでおりますので、感想を少しずつ書いていきたいと思います。

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2005年7月15日 (金)

アイリッシュも本名

 コーネル・ウールリッチはウィリアム・アイリッシュという別名でも知られていますが、私はウールリッチが本名で、アイリッシュがペンネームだと思っていました。しかし、今度発売された伝記(翻訳版)には、死ぬ数年前に彼は役所に改名届けを出して、名前をコーネル・ウールリッチからウィリアム・アイリッシュに変えていたことが書かれています。つまり、彼はコーネル・ウールリッチとして生まれ、ウィリアム・アイリッシュとして死んだわけです。私は長い間、彼の作品を読んでいますが、この事実を知りませんでした。このことはすでに誰かが書いていたのを私が見落としていたのでしょう。資料は出来る限り、たくさん眼を通す必要があるという鉄則を改めて痛感しました。書く前でよかったと安堵しています。彼が何故こんなことをしたのか。詳しいことはメルマガの中で書くつもりです。でも、19世紀から始めましたので、彼が登場するのは来年になります。

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2005年7月12日 (火)

ウールリッチの伝記

 1988年に出版されたコーネル・ウールリッチの伝記の日本語版が早川書房から出版されました。何故、今なのかは知りませんが、私個人としては「助かった!」と喜んでいます。ニューヨーク・ミステリを語る上では欠かせない人の伝記だけに目を通したかったのですが、辞書片手に悪戦苦闘しなければいけない語学力なので気が重かったのです。日本語で読めるので大助かりというわけです。ついでに自伝の翻訳も出してくれないかなと願っているのですが、これは間に合いそうもありませんので原文を読まなければと覚悟はしています。これで、アメリカン・ミステリの大物の伝記で日本語版の出ていないのはロス・マクドナルドだけになりました。

 「コーネル・ウールリッチの生涯」(上下二冊)

 フランシス・M・ネヴィンズJr.著・門野 集訳

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2005年7月 9日 (土)

ニューヨーク・ミステリの系譜

 しばらくこのブログを書く暇もない程に忙しい日々でした。私が月1回発行しているメルマガで新シリーズを始めるので資料の読破と原稿執筆に追われていたからです。それがやっと出来上がり、明日か明後日には送信の予定です。

 ミステリの分類にはジャンル別、作家別、時代別、国別等いくつかの方法があります。私もこの五年間、ハードボイルド系統の作家の作品を取り上げてきましたが、今回からは一つの都市を舞台にした作品にスポットを当ててみたいと思っています。翻訳ミステリで、舞台として描かれている都市のトップはニューヨークです。あらゆるジャンルのミステリからニューヨークを舞台の作品を取り上げていくつもりです。単なる書評ではなく、ミステリを通してのニューヨーク論を目指したいと考えています。

 メルマガのタイトルは「海外ミステリを読む」です。「まぐまぐ」「メルマガ天国」「カプライト」「melma!」「E-Magazine」の各サイトで発行しています。

 

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2005年6月29日 (水)

リュー・アーチャーの職業意識

 あんたのような人がどうしてこんな仕事で人生を徒に過ごしているのかと訊かれたアーチャーはこう答えます。

「生活できるだけのものは稼ぎますね。しかし、私はなにも金だけでこんな仕事をしているわけじゃない。こういう生き方をしたいからやっているまでですよ」

 ですが、「いかがわしい仕事じゃないのか、ミスター・アーチャー?」と追求されると、こう反論します。

「それも人によりけりですよ。医者にしろ何にしろ、いずれ五十歩百歩でしょう。私は、まあ、まがった仕事はすまいと思っていましてね」

 あまり説得力のある言葉ではないですよね。

 「ギャルトン事件」(中田耕治訳)より

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2005年6月21日 (火)

リュー・アーチャーの青春

 ロス・マクドナルドはリュー・アーチャー・シリーズの中で主人公リュー・アーチャーの若い頃のことはあまり書いていませんが、「運命」(中田耕治訳・ポケミス版)の中でだけは何故か詳しく書いています。その後の作品ではそのことを忘れたように品行方正の男に戻しています。

 「ほかならぬ私自身がかっては街の不良少年だったし、ギャングの仲間であり、窃盗犯人であり、賭博場の用心棒だったのだ。それは私が思い出したくない事実だった。」

 同一人物を主人公にしたシリーズものを書いていると、途中でどうしても作者の思い入れが変わってくるものです。性格や趣味などは適当な理由をつけて変えてしまえるのですが、過去だけは変えられないので苦労します。ロス・マクドナルドは「これは失敗だった」と思っていた筈です。その証拠に二度とこのことには触れていません。忘れた振りをするしかないのです。

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2005年6月16日 (木)

「図書館映画と映画文献」

 売れて欲しい本は売れず、どうすれば金儲けが出来るかと言った下らぬ本が売れるのは昨今の嘆かわしい現象ですが、これもこの国の知的レベルの衰退以外の何物でもないでしょう。

 私がもっと売れて欲しいと考える本の一つに「図書館映画と映画文献」という本があります。図書館や図書館員が登場する映画を集めた文献です。著者の飯島朋子さんは図書館勤務の経験がある方のようですが、映画が好きな女性だと思います。私も一般の本屋で見つからず、苦労して捜して買ったのですが、少なくても日本中の公共図書館で常備して欲しいと思います。

「図書館映画と映画文献」(「映画のなかの図書館」改訂)飯島朋子著・日本図書刊行会・2001年

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2005年6月11日 (土)

私好みのミステリ名文集3

 「違いますわ、アーチャーさん」と、かすかな笑みを浮かべて未亡人は言った。「あなたが商売熱心でいらっしゃることに、わたくしは何の異存もございませんのよ。商売ではなくて、職業と申し上げないと失礼かしら。とにかく、人の死に方なんか、どうでもよろしいじゃございません?死人は死人。わたくしたちも遅かれ早かれ死にますわ。一部の人間が比較的早く死ぬだけです。わたくしの残り少ない人生の時間を、これ以上あなたに差し上げる必要もなさそうね」
 (ロス・マクドナルド「さむけ」より。小笠原豊樹訳。ハヤカワ文庫版)

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2005年6月 8日 (水)

リュー・アーチャーの出発点

 ロス・マクドナルドはリュー・アーチャー・シリーズの第1作「動く標的」で主人公の私立探偵リュー・アーチャーの経歴や性格などの設定を行っています。

 どうして私立探偵をしているのかと訊かれた時にはこう答えています。

「この仕事は、ほかの男の仕事を継いでやっているんだ」
「お父さんの?」
「ほかの男といっても、若いころの自分自身のことさ。若いころは、この世は善人と悪人にはっきり別れていて、悪の責任ははっきりとある種の人間に帰していて、罪を罰することができると考えていた」

 が、本当のところは警官を辞めたので、食うために私立探偵になったに過ぎないようです。

「警察の馴れ合いが我慢できなかったし、腐ったやりかたがいやになってね。とにかく、辞めたんじゃなくて、追い出されたんだ」

そして、仕事についてはこう語っています。

「私の仕事の大部分は、人間を観察し、判断することだ」

「私の仕事は離婚事件がほとんどです。いわば、犬も食わない事件を食いものにする山犬です」

 (井上一夫訳・創元文庫版より)

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2005年5月26日 (木)

ハメットへの悼辞

ハメットの葬式は1961年1月12日にニューヨークの葬儀社で行われましたが、その時のリリアン・ヘルマンの悼辞はウィリアム・F・ノーランの「ダシール・ハメット伝」(小鷹信光訳・晶文社)で読むことができます。その中から私の好きな文章を少し引用させて頂きます。

「彼は本に書かれている言葉に敬意を払い、現実の生活における言葉に疑いの目を向けた」

「彼はわたしたちが生きているこの社会をあまり高く評価していなかったが、その社会によって罰せられても愚痴ひとつこぼさなかったし、その罪にたいして怒りを燃やすこともなかった」

「いついかなるときも、彼は他人のゲームではなく、自分自身のゲームをおし通した」

「彼は決して嘘をつかなかった。人をだまさなかった」

 悼辞はその人の良い所を抜き出して言うわけですから、後世になって読む人は多少の引き算は必要です。ですが、逆に言えばその引き算の仕方が読む人間の人格を表すとも言えます。例えば、私自身の読み方ですが、献金者のリストを提出しろと言われて拒否したために投獄されたことに対しては「怒りを燃やしていた」はずですし、「決して嘘をつかなかった」というのも嘘でしょう。それはリリアン自身がよく知っていた筈です。

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2005年5月22日 (日)

「影なき男」の影

 ハメットの最後の長編は「影なき男」ですが、原題は「THE THIN MAN」なのです。行方不明の男の特徴が「やせた男」という意味で使っているのですが、日本語版ではそれを「影なき男」と変えたわけです。これは単に「やせた男」では売りにくいという営業サイドの問題を通り越した、もっと大きな問題を含むと思います。つまり、「やせた男」という表現よりも「影なき男」と表現した方が日本人が好む表現だからです。日本人は何故、「やせた男」より、「影なき男」という表現を好むのかは、漢民族の表意文字を借用し、それに日本独自の「かな」を加えた日本語という言語の特徴と言えます。単に「やせた」では肉体的特徴に過ぎないわけですが、「影」という文字を使うことで、やせた人間は影もすくないという肉体的な特徴に加えて、精神的な陰影をも読む人間に感じさせるわけです。これが表意文字の特徴なのです。日本人は生まれた時からこの環境の中で生活していますので、自然に「影なき」という表現が好みに合うということなのです。

 この作品のラストで主人公のニック・チャールズは妻のノラにこう語ります。ノラが事件に関わった人達はこれからどうするのでしょうと尋ねたことへの返事です。

 「いくら殺人事件といったって、殺されたやつと殺したやつとの生活を変えるだけで、そうやたらにだれでもの人生を変えたりはしないよ」

 初期には「だれでもの人生をやたらに変えた」作品を書き続けていたハメットも最後はこういうことを書いているのです。これを達観とみるか、衰えとみるかは人によって違うと思いますが、皮肉なのは映画化されヒットしたおかげで、ハメットに大金が入り、小説を書かなくても生活が出来るようになったことです。

 引用した文章は砧一郎氏訳のポケミス版からですが、これの表紙が面白いのです。上に「影なき男」と日本語版の題名があり、中心部に夜のビルの谷間が描かれた絵があり、その絵の左側に原題「THE THIN MAN」を入れ、右側に男の影が描かれているのです。「影なき男」の影が描かれた珍しい表紙です。
                 

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2005年5月19日 (木)

荷風とニューヨーク

古本探しにはいしゅういち氏の「古本市カレンダー」を利用させて貰っていますが、今週はビッグ・ボックス、サンシャインシテイ、早稲田大学と三つの古本市を一日で回れる機会がありましたので行ってきました。その時に書いている作品かメルマガの資料集めが主な目的ですが、今はメルマガ用にニューヨーク関連の書籍を集めています。

成果としては「荷風とニューヨーク」(末延芳晴著・青土社)という力作を入手することが出来ました。私の個人的は方針はあこぎな商売をしている古本屋は嫌いなので、そういう本は買わないというものですが、この本は適正な値段だったので買いました。大学の研究論文や雑誌の連載をしている売れっ子作家はお金はいくらでもいいから必要な資料は買わなければいけないという事情があるのを古本屋さんはちゃんとご存じなのです。こっちも相手が、古本屋としてあこぎな商売をしているか、良心的な商売をしているのかが分かる位の経験はあるので・・・

話がそれましたが、問題のこの本に戻ると、この本の資料的価値を高めているのは巻頭に載せた20世紀初頭のニューヨークの絵はがきや写真です。ご本人が10年以上かけて集めたものだと書いておられますが、金銭的には一枚の絵はがきに数万円の費用がかかって入るに違いないとげすな勘ぐりをしております。まあ、そんなことはどうでもいいことですが、例えばバッテリー・パークから見たニューヨーク港の絵はがきには公園にあった水族館が写っています。この写真で水族館の外観がどのようなものであったかがはっきり分かり、資料として高い価値があるわけです。

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2005年5月16日 (月)

マーロウのロサンゼルス

作家が作中で語る都市観には、その時の心情が本音で出てくることが多いものです。チャンドラーはロサンゼルスに長い年月住んでいましたので、この街をよく知っているはずですが、作品の中ではそんなに多くを語っていません。

「かわいい女」の中に次のような文章があります。「僕」はいうまでもなくフィリップ・マーロウです。

「僕はこの街が好きだった」と前置きして、「ビヴァリイ・ヒルズは田舎町だった。ハリウッドは街道にひとかたまりの小さな家があるだけだった。ロサンゼルスは汚い家が不規則に建っている、陽当たりのいいだだっ広い町にすぎなかったが、人気がよく、平和だった。」と続け、「インテリをもって任じていた連中はアメリカのアテネといっていた。アテネではなかったが、ネオンが輝く貧民窟ではなかった」と結んでいます。

 「アテネ」ではないが、「貧民窟」でもないというのが作者の本音でしょう。このあと、さらにこう続けています。

「ロサンゼルスはハリウッドを持っていて、それをいやがっている。幸運を喜ばなければいけないんだ。ハリウッドがなかったら、通信販売の都会じゃないか。カタログにのっているものはなんでも、ほかのところへ行けばもっと質のいいものが手にはいるんだ」

嫌悪感が滲み出ている文章ですが、ハリウッドで脚本家として冷遇されていたチャンドラーの不快感が重なるような気がします。

「長いお別れ」にはこういう文章があります。

「ほかの都市と比べて特に邪悪にみちているとはいえないし、ゆたかで、活気があって誇りを持ってはいるが、うちひしがれて、空虚にみちている都市(まち)だった」

「うちひしがれて、空虚」なのは作者自身のこの時の心情でしょう。酒が切れた時のアル中のような気持でしょうか。
(訳はすべて清水俊二氏です)

 

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2005年5月13日 (金)

ポケミスは書斎で永眠?

翻訳ミステリを語る時にポケミスの存在は欠かせませんが、これがなかなか古本として市場に出て来ないのです。古本市にはよく行く方ですが、ポケミスが出ていることはあまりありません。古本屋でも専門にしている店は別としてなかなかお目にかかることはありません。ブック オフなどは皆無です。ポケミス ファンは一度買った本は手放さないということなのでしょう。その為、専門店は高値で商売出来るのでしょう。例えばユーナックの「おとり」は3000円でした。買うのはやめましたけど・・・

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2005年5月10日 (火)

私好みのミステリ名文集2

 ハメットは「マルタの鷹」の中でサム・スペイドにこう言わせています。

「おれは頼まれた仕事を果たした.きみは品物を手に入れた。その品物がきみの欲していたものでなかったからといって、それはきみの不運であって、おれの不運じゃないんだ。」(村上啓夫訳)

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2005年5月 8日 (日)

ファイロ・ヴァンスはハンディ3

 私のメルマガ「海外ミステリを読む」が7月から新シリーズに入るので古い作品を読み直しています。ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスものの第1作「ベンスン殺人事件」の中に彼のゴルフのハンディが3だと書いてあるのに気がついて驚きました。この作品、受験に失敗して浪人している頃に暇に任せて読んでいるのですが、その頃はゴルフをしませんでしたので、読み流したのでしょう。今はゴルフをするようになったので、そのことに注意がいったのでしょう。ハンディが3だと分かると彼に対するイメージが変わってくるような気がします。

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2005年5月 5日 (木)

サルトルの呪い

 ジャン・ポール・サルトルの名前を見聞きすると今でも心が穏やかではない人間が日本にもいると思いますが、私も実はそんな中の一人です。「彼は彼女を愛していた」という文章にサルトルは「彼」が何を考えているのかは神でなければ分からないはずだ。「私は彼女を愛していた」でなければいけない。簡単に言えばサルトルはそう主張したわけです。

 自分が神ではないと分かっている人間は、サルトルのその一言で小説が書けなくなったのです。十代だった私も大きな衝撃を受けたことを覚えています。いまだに三人称では書けないのはサルトルの呪いのような気がします。

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2005年5月 3日 (火)

ハメットとヘルマン

ハードボイルド小説の始祖ダシール・ハメットの生涯を追いかけた時に一番印象に残っているのは、リリアン・ヘルマンとのエピソードです。リリアンが「いつか貴方の伝記を書きたい」とハメットに言った時、ハメットはこう言ったそうです。

「僕の伝記を書くなんてやめた方がいい。それはどうせハメットという名の友人が時々出てくるだけのリリアン・ヘルマンの自伝になるだけだ。」

女という生き物を知り尽くした男でなければ言えない科白です。残念なのはそれが分かるようになったときには男はもう死にかけているということです。

 

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2005年5月 1日 (日)

私好みのミステリ名文集1

私のメルマガ「海外ミステリを読む」も5年目に入りましたが、これまで読んできた作品から私が個人的に気に入っている名文・名台詞をご紹介します。

「あたしにも、あなたが正しいことはわかってるわ。でも、いまはあたしにさわらないで」

(ダシール・ハメット「マルタの鷹」より。村上啓夫訳)

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2005年4月23日 (土)

「海外ミステリを読む」

 私が月1回発行しているメルマガ「海外ミステリを読む」は五年目に入っています。チャンドラー、ハメット、ロス・マクの御三家から初めて、この一年間はトマス・H・クックの作品を読んでいます。

 以下のサイトで無料で読めますので、興味のある方はお立ち寄り下さい。

 「まぐまぐ!」 「メルマガ天国」 「カプライト」 「melma!」 「E-Magazine」

 バックナンバーは私のホームページ「中原行夫の部屋」でも読むことが出来ます。

 

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2005年4月20日 (水)

原資料の保護

 図書館で多くの人が同じ資料を、それぞれのテーマの為の調査を繰り返せば、それだけ痛みが増すわけです。

 具体的な話をすれば、私の研究テーマの一つが映画ですが、ある時、昭和初期の「キネマ旬報」を読む為に国会図書館に行って、求める雑誌を借り出したのですがぼろぼろになっていて、「閲覧禁止」の処置がとられる寸前の状態でした。つまり、それだけ多くの人がこの雑誌から何らかの情報を得ているわけです。

 各人が自分が得た情報を死蔵せずにネットに載せておけば、その情報が欲しい人は図書館に行かずに済むはずです。それだけではなく、原資料の傷みも止められるはずです。

 というわけで、私は「自分のフォルダー」から「インターネットへの公開」を多くの人に訴えて行きたいと思います。

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2005年4月18日 (月)

情報の共有

 このコラムの最初に私のインターネットへのスタンスを書いておきたいと思います。

 インターネットの利用の仕方は色々あり、それはそれで結構なことだと思いますが、私の個人的な利用の仕方は図書館代わりなのです。何かを調べたい時には、まずネット上で検索します。最近では情報量が増えて、それだけで欲しい情報を得ることが出来るようになりました。それでも得られない時に、図書館へ出かけるわけです。

 図書館ではいつも多くの人が何かを調べていますが、その調査結果を自分のホルダーに保管するのではなくネットに載せてくれればいいなと思っています。誰がいつどういう情報を必要とするかは分からないわけですからネットに載せておけば、第3者がいつでも図書館に行って調べなくても簡単に手に入れることが出来るのです。

 そのことは単に情報を得たいという人の時間と交通費の節約だけはない、もっと大事なメリットがあると思います。(この項、次回に続く)

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