ウールリッチの自伝9
ウールリッチの自伝の第3章は「EVen God Felt the Depression」と題が付けられています。「神でさえ不況だと思った」という意味でしょうが、要するに1929年10月の株価の暴落に始まる大恐慌の時代のことです。第2章は初恋の結末を語って終わっているのですから、その間の事が抜けているわけです。実は彼が書かなかったこの期間が彼のこのあとの人生を決めた時期だったのです。編集者のバセットが「Romantic Novel」と呼ぶ初期の小説が認められて、ハリウッドに招かれて映画のシナリオを書いていた時期です。我々が知っているウールリッチの作品(編集者は「Suspense Fiction」と呼んでいます)はまだ生まれていません。
この時期の最大の出来事は結婚です。彼は1930年12月にジェイムズ・スチュアート・ブラックトンという映画のプロデュサーの娘のグロリアと突然二人だけの結婚式を挙げたのです。が、三ヶ月続いただけでした。ニューヨークに戻った彼は再び母親との暮らしに戻ります。
1931年には母親とヨーロッパに旅行します。この旅の間に完成させた「マンハッタン・ラブソング」は「Romantic Novel」の時代から「Suspense Fiction」への転換を告げる作品という評価が何人かに指摘されています。これについてはメルマガの中でじっくり書いてみたいと思っています。
そして帰国してから彼は独立し、ホテルでの一人暮らしを始めるのです。第3章はこの一人暮らしの時期の話から始めていて、その間のことには言及していません。我々が一番知りたいことー結婚生活とかシナリオ・ライター生活のことは一切書いていないのです。書きたくないことの多い時期だったと推察するしかありません。自伝の第2章と第3章の間の空白が彼の自伝の中の、さらに言うならば彼の人生の中の一番重い部分だったのではないでしょうか。初恋の女性が人生を狂わせて行く姿は冷酷にフィクション化して書いたのに、彼自らの人生が歪んで行く姿、つまり結婚生活が出来なかったという事実を直視することが出来なかったわけですから。

